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2025年度卒業式が挙行されました



卒業生・大学院修了生へのメッセージ

「美しい悲しみ(beautiful sadness)」
大学院修了式・学部卒業式にあたり、ひと言、お祝いと餞の言葉を述べさせてください。皆さんが、本学で受ける最終の講義と受け止めてくださったらとても嬉しく思います。
さて、皆さんは、「卒業」ならざる「卒寿」という言葉をご存じでしょうか。卒業の卒という字に寿命の寿を重ねた漢字です。ちなみに、還暦は、六十歳、古希は、七十歳、傘寿が八十歳と続きますが、「卒寿」が意味するのは、九十歳。「卒」の略字「卆」を縦に見ると、「九十」と読めることから、九十歳のお祝いとして定着したとされています。しかし、「卒」という字そのものの意味が、実はあまり縁起の良いものとは言えないのですね。なぜなら、「卒」は、古来、終わりを、突き詰めれば、死を含意する言葉でもあるからです。
では、皆さんは、「喜寿」という言葉をご存じでしょうか。「喜寿」は、そう、七十七才を意味します。喜寿の「喜」は、喜びと書きます。文字通り、喜ばしい年齢を意味するわけですね。由来は、喜(き)の字を崩した「草書体」が、「㐂」となり、「七」「十」「七」の三つの字に分解できることから、七十七歳の年齢を寿ぐ言葉とされるようになりました。
ちなみに私は、今年二月、七十七歳、つまり「喜寿」を迎えました。若い皆さんとは、年齢的に五十歳以上の隔たりがあります。ところが、こうして嬉しい節目の年を迎えた私の心からなぜか漠とした憂いが去ることはありません。そこでその原因について思いを巡らせるうち、出てきた答えがありました。要するに、自分は、時代から決定的に遅れ出している、という、きわめてパーソナルな事実です。世の常識が、あらゆる面であまりにドラマティックに変化しつつある。
皆さんはまだ実感がないかもしれませんが、喜寿の老人の目に世界は今、大きく三つの病を抱えているように見えます。「二極化」の言葉に象徴される社会の分断。日々、貧富の差が激しくなっている。そして、SNSの異常増殖。それと背中合わせにある、「ポスト・トゥルース」という厄介な病。悪貨が良貨を駆逐するように、虚偽が徐々に真実を覆い隠そうとしていくプロセスが手にとるようにわかるのです。さらに、これには、多少、個人的な事情もからみますが、生成AⅠの爆発的進化。多かれ少なかれ、これら三つの病は、AⅠの計り知れない影響下にあります。私自身、その進化に追いつこうと必死ですが、徐々にその距離を詰められなくなっている自分に気づきます。今後、どれほど長い残り人生が約束されようとAⅠの描く未来のヴィジョンに幸せな気持ちで同化できそうな気がしません。AⅠは、今後格差を飛躍的に助長する、もっとも先鋭的なツールとなるに違いありません。これが私の憂鬱の正体でした。そしてAⅠの助けを得て長く生きれば生きるほど、この地球上に起こる数々の悲惨と向き合わざるを得なくなります。そして心の闇がますます重く、深まっていく。直近の出来事であるイラン戦争について、ある政治学者は言いました。ついに、地獄の釜の蓋が開いた、と。
さて、こんな悲観的な考えに傾く私に、これから未来に羽ばたこうとする皆さんを励ませる言葉がどれだけ語れるのか。正直言って自信はありません。しかし、こうして演壇に立った以上、沈黙したまま立ち去ることは許されません。
今年二〇二六年の幕が上がると間もなく、私は、星が丘三越五階にある書店に頻繁に足を運ぶようになりました。言葉探しのためです。しかし結局のところは、期待した本に巡りあえず、空しく引き上げるという日々を繰り返してきました。
そして二月に入り、この袋小路から抜け出さねばと、縋る思いでスポーツ観戦に身を浸すことを決めたのです。ミラノ・コルティナオリンピック2026。目的は一つでした。それ自体、ほとんど無目的と呼ぶにふさわしい競技に、それこそ全身全霊を打ち込むアスリートたちの姿を見れば、きっと生きる勇気、生きた言葉が湧いてくるのではないか、そう思ったのです。そして、実際、ほぼ全種目にわたって観戦し、多くのドラマを経験したのでした。
悲喜こもごもでした。勝利の女神の気まぐれに深く傷つけられる場面も多々ありました。しかし、オリンピック全体を通して深く記憶に刻まれたのは、何よりも敗者たちの姿でした。一瞬のミスで失格となり、記録を失った選手の姿に、私は、ふと、古代ギリシャの悲劇にも似た、運命の厳しさを連想しました。今も、印象的なシーンが対をなして脳裏に甦ります。
ひとつは、ノルディック男子五十キロ。ご存じのように、ノルウェーのヒーロー、ヨハンネス・クレボ選手が、「五輪完全制覇」六冠をなしとげた種目です。そしてもう一つが、アルペン男子回転。予選をトップで通過し、メダル獲得を確信しつつスタート地点に立った選手が、スタートから数秒後、致命的なミスをおかして、コースアウトしました。クレボ選手と同じノルウェーの出で名前は、アトレリー・マグラス。絶望したマグラス選手は、二本のストックを場外に投げすて、スキー板を放り出したまま歩きだし、フェンスの傍らの雪原に倒れこんだまま、動こうとしません。悪夢であってくれ、そんな嘆きが聞こえてきそうな絶望的光景です。しかし、どんなに叫ぼうと、彼を待ちうけているのは、厳しい×の文字。その悲痛な姿を表して「高度に悲劇的な舞台(high-tragic theater)」「オリンピック・メルトダウン(Olympic meltdown)」と呼んだ西側のメディアもありました。「メルトダウン」とは、感情の崩壊・破綻を意味しています。そして後で判明したのですが、実は大会開会式の日に彼は祖父を亡くし、喪章を巻いてレースに臨んでいたのですね。
約百年に及ぶ冬季オリンピックの歴史のなかでむろん同種のシーンは無数回、反復されてきたことでしょう。オリンピックを観るとは、勝者たちにもたらされた栄光の輝きだけでなく、敗者の姿を見、その内面に思いをこらすことのできる稀有な機会でもあるのです。
ミラノ・コルティナ五輪を見終えたあと、私がぼんやりと考えていたのは、やはりマグラス選手のその後でした。彼は果たして立ち直ることができたのか。そして、勝利とは何か、敗北とは何かについて、漠然と思いを巡らせていました。先ほど、ギリシャ悲劇の連想ではありませんが、勝利と敗北の分かれ目は、人生のあらゆる瞬間に訪れ、私たちの人生を翻弄していきます。そんななかで、なおかつ自信をもって生きていくにはどうしたらよいのか。
マグラス選手の言葉が示唆するように、人生の価値は、どこで決するか決してわかりません。成功と失敗、勝利と敗北はありとあらゆる瞬間に起こりえます。早くして得た成功や勝利が、十年後から見ると、意味を失うことも少なくありません。
私は、三月の式辞で、このマグラス選手に襲いかかった試練について何かを語ることに決め、そこから果たしてどのような結論を、餞を引き出すことができるか考えました。私は再び、星が丘三越の書店に行き、皆さんも恐らくはご存じの『嫌われる勇気』というタイトルの本を手に取ったのでした。発売以来十数年、世界で千三百五十万部を売りつくしたという空前のベストセラーです。そこには、こんなことが書いてありました――。
一、トラウマは存在しない。
二、人は過去ではなく「今の目的」によって行動している。
三、すべての悩みは対人関係の悩みである。
四、課題を分離する。他人の評価は他人の課題と割り切る。
五、嫌われる勇気を持つ。すべての人に好かれることは不可能。自由に生きるには、嫌われる可能性を受け入れる必要がある。
六、そして共同体の感覚。「私はここにいていい」と思える感覚こそが幸福の鍵である。
ちなみに『嫌われる勇気』は、知る人ぞ知る、オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーの唱えた幸せの三原則に基づいて再構築された自己啓発の書で、右に引用した六つの言葉にはとても力づけられる思いがしました。むろん、アドラーの思想に対して、さまざまな批判が投げかけられました。アドラーなんて古臭い、他人の評価を気にせずに生きていけるはずがない。そんなもの、強者だけに通用する哲学だ、と。しかし、私はそうは考えませんでした。そこで敢えて皆さんにアドラーの思想を紹介することにしたのです。
いえ、これは、決して強者の哲学ではない。この楽観主義に出発点を置かなければ、何ひとつ、成功はおぼつかない、という予感がするのです。しかしそれでも、勘違いしてはいけません。他者の評価を気にしない、というのは、他者の評価をはなから無視せよ、というのとは違うということ。他者の評価を気にせず、嫌われる勇気をもてるには、他者の心のなかに入る繊細な洞察力が不可欠なのです。そのことを十分に理解したうえで、最善と信じる道を探り、自分がコントロールできることに集中せよとアドラーは語るのです。
最後にひと言述べて、締めくくりの言葉とすることにしましょう。『嫌われる勇気』を読みながら、なぜか私は、小さな部屋にひとり佇んでいる自分の姿を思い浮かべていました。長い時間を生き、それを実りあるものにするためには、自分以外の誰も立ち入れない心の部屋が必要だ、それが、長い時間を経て私自身が辿りついた一つの人生哲学です。私は、この部屋に在る。この部屋にあって自分だけの喜びをかみしめることができる。この喜びこそは、外見にはどれほど脆弱でも、それこそが最も奪われにくい財産だ。そのように孤独の感覚を噛みしめたときに初めて、人々との連帯、人々との輪のなかにある喜びをかみしめることができる。
卒業生、修了生の皆さん。どうか、目先の幸せに惑わされず、自分だけの、かけがえのない時間を味わい尽くしていってください。嫌われてもいい、直観がひらめいたら、その場で何も考えずに走りだしてよいと思います。そうして最善と思えるものを確実に自分の血肉に変えていってほしいのです。そのために、親しい友との約束を反故にすることもあるかもしれません。真の友であれば、そうして唐突に走り出したあなたの後ろ姿を穏やかな笑みとともに見送ってくれるはずです。それだけの心の余裕が生まれたときにはじめて、勝利と敗北、成功と失敗を超え、あなたと友人との間には真に成熟した友情が生まれるのです。
ところで、ノルウェーのマグラス選手の話はどこへ行ったのでしょうか。敗北から一週間後、彼は、アメリカのテレビアニメ『サウスパーク』に登場するお人よしのキャラクター、バターズの有名なセリフを借りて、インスタグラムにこう投稿していたのでした。
「ここ数週間、ありとあらゆる感情を味わってきた。悲しみ、怒り、失望、喜び、誇り。それを表現する唯一の方法はこうだ――。」
「うん、確かに悲しい。でも同時に、自分をこんなにも悲しくさせるものがあるってことが、すごく嬉しいんだ。そう感じることで、自分が生きているって実感できるし、人間なんだって思える。こんなに悲しく感じられるのは、その前に本当に素晴らしい何かを感じていたからに違いない。だから、いいことがあれば悪いことも受け入れなくちゃいけないと思う(So I have to take the bad with the good.)。たぶん、今のこの気持ちは――「美しい悲しみ(beautiful sadness)」ってやつなんだと思う。僕はこの気持ちを失いたくない。なぜなら、それによって自分が生きていることを実感できるから。いいことがあれば悪いことも受け入れなくちゃいけない。」――美しい悲しみ。
これが、二十五才の青年がたどった自己克服のドラマだったのです。それにしても、これだけ含蓄ある、それでいて絶妙なアイロニーをにじませた言葉を、私自身長い人生のなかで発し得たことがあるだろうかと、思わずわが身を振り返りました。ありません。そこで私はつくづく修業の足りなさを実感したのです。若さのもつ、すばらしい反発力、レジリエンスの力。マグラス選手の言葉に、若い人々に対する期待が一挙に高まりました。皆さんが存分に活躍できる時代がもう目の前に来ているのだ、と。しかしそれにしても、この「beautiful sadness」、どう訳せば、正しい意味に辿りつくことができるでしょうか。
以上、時代のケイオス(混沌)に飲み込まれ、半ば言葉を失いかけている老学長から贈る餞の言葉です。
二〇二六年三月二十二日                   
名古屋外国語大学長     亀山 郁夫