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2023年度卒業式が挙行されました



卒業生・大学院修了生へのメッセージ

大学院修了式・卒業式にあたり、ひと言、お祝いと餞の言葉を述べさせてください。この喜ばしい門出の挨拶には似つかわしくない、少しシリアスな話題から始めますが、最後は、皆さんとともに微笑みを分かち合いながらの締めくくりとしたいと願っています。さしあたりはどうかお許しくださいますように。
さて、私は、これまで七五年の人生を生きてきたなかで改めて深く思うことがあるのです。記憶するかぎり、これほどにも重苦しい時代を経験したことはなかった。ただし、今の私の感慨を、新たな旅立ちを控えた皆さんに共有していただくことは、かなり困難かもしれません。第一に、地球規模で起こっているさまざまな現象が挙げられます。皆さんも薄々感じとっておられるように、地球社会は、今、精神的にも、身体的にも重く病み、深刻な危機に直面しています。二年前であれば、コロナ禍を筆頭に挙げたかもしれませんが、今はもはやステージが異なります。ウクライナ侵攻、ガザ紛争、能登半島地震、世界的なインフレ、そしてネット上に氾濫するフェイクニュース。数え上げたらきりがありません。
私は戦後の生まれですから、むろん、戦争の悲惨をじかに体験してはいません。戦後の混乱も、おぼろげな映像として記憶するだけです。また、六人兄弟の末っ子として生まれ、経済的に恵まれた環境に育ったわけではありません。ただ、旺盛な食欲は、夕食のメニューの貧しさを忘れさせてくれました。青春時代の溢れる若さは、貧しさに対するよりもはるかに、「光」に敏感だったということです。光とは、むろん将来の夢を見る力であり、対象が何であれ憧れる力を意味していました。飛行機に乗ることなど夢のまた夢という時代に、私は、飛行機のパイロットになることを夢見て、その夢を実現しようと、小学校五年生から、独学で英語の勉強を始めました。余暇の時間は、少年少女用にアダプトされたジュール・ヴェルヌやコナン・ドイルの小説に夢中になり、機会があれば、ラジオにかじりつくようにして西欧の音楽に耳を傾けていました。つまり、現に、客観的な事実として存在する貧しさの存在にほとんど気づかずに生きていたのです。そんな私が、それから六十年を経た今、実感するのです。現代の今ほど、重苦しい時代はない、と。そしてこのペシミズムの底に息づいているのは、人類が長い時間をかけて培ってきた正義やデモクラシーといった観念が根本から覆され、毀損されている、もっというと、世界秩序を維持していくうえでの絶対的な前提ではなくなりつつあるという無念さです。
では、一体、何を介して、私は、正義や暴力の観念を学んだか、ということです。きっかけは、高校三年生の春に読んだ『カラマーゾフの兄弟』というロシアの小説でした。作者はフョードル・ドストエフスキー。物語の中で、主人公の一人イワンという青年は、弟の修道僧アリョーシャに向かってこう叫びます。世界に、これほどにも不幸や悲惨が満ち溢れているのに、どうしてこの世界を神さまが創ったといえるのか。そこでこのイワンが実例として挙げるのが、世の中にあまねくはびこる幼児虐待の数々です。ある時、金持ちの大地主は、自分の飼犬が怪我をし、足を引きずっているのに気づきます。そこで地主は、過って犬にけがをさせてしまった少年を仕置き部屋にひと晩閉じ込め、その挙句、翌朝その少年を素裸にして、百匹以上の猟犬の群れのなかに解き放つのです。イワンは、怒りに震え、憤然として叫びます。神の支配のもとで人間が調和的に生きることができるなど到底信じられない、神の国への入場券など突き返してやる、と。じつは、このイワンの心境が、今の私には痛いくらいによくわかるのです。世界にあまねく広がる暴力を目にしながら、同じように叫びだしたい気持ちです。猟犬に食いちぎられた少年の姿は、今、私の心のなかに自ずとウクライナやガザでの戦争の犠牲となった無実の人々の姿を思い起こさせます。この悲惨から逃れるすべはどこにあるのでしょうか。
さて、私がこの式辞の冒頭で述べた重苦しさの感覚は、ひと言で言うと、人間の命の大切さが、実感として経験されなくなっている、という漠とした印象に由来しています。ウクライナ侵攻では、二十万人を超える死者が出たとされています。じつは、こうした概数による死者の数え方というのは、あまり好ましいものではありません。なぜなら、そこでは、人間の命が統計上の数と化しているからです。生命の大切さというのは、本来的には、「善悪」「正義、不正」の問題を超えた、より根源的な問題、もっと言えば、一人ひとりの人間の生きざまの問題です。生命の価値とは、他者の苦しみ、痛みをみずからの痛みとして経験できる想像力の強さから生まれるものです。先ほど引用したドストエフスキーは書いています。「人間というのは、どんなことにも慣れることのできる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う」と。だれもが自分の死を恐れているのに、他者の死に対しては、いつのまにか慣れっこになり、無関心になり、驚かなくなる。これほど悲しいことはありません。
翻って、日々刻々と変化する状況に目を向けながら、私はこの一・二年、日本という平和な国に生まれた幸運に思いを馳せることになりました。皆さんは、「世界平和度指数」というランキングがあるのをご存じでしょうか。日本は、このランキングで、地球上の一六三の国と地域のうち、何と第九位。ちなみに一位は、アイスランド。永世中立国スイスは、日本に次ぐ第十位です。日本の人口規模を考えた場合、実質的にはダントツに世界一位と言っても過言ではないでしょう。しかし、今年の元旦に起こった能登半島地震の惨状をテレビで見ながら、不幸は、私たちの平和な日本のいたるところにある、という思いを強くしました。世界にこれだけの不幸が満ち溢れているのに、どうしてこの世界を神さまが創ったといえるのか、との問いは、私たち日本人一人ひとりにとっても差し迫った意味を帯びていることに気づかされたのです。
同じ地球、同じ地図の上に生きる人々の不幸と自分の幸せ。この対比をどこまで切実な問いとして受け止めることができるか。これこそ、一人の人間の精神的な自立度、成熟度を測る試金石だと私は考えています。この問いに答えることは、とても困難です。一方に、すべて運命じゃないか、天災だから仕方ないじゃないか、という定型的回答が存在するからです。そして「運命」という厳粛な一言の前ではどんな努力も無意味だと言わんばかりに人々は容易に膝を屈してしまう。では、こうした定型的回答を乗りこえる道をどこに見出すべきなのでしょうか。少し逆説的に響くかもしれないのですが、私はこう答えようと思うのです。「私だけ」が、「自分だけ」が幸福になるための努力を持続させること。
どうしてこのような、一見、逆説的で突拍子もない結論が可能となったのか。その理由を次に述べます。
最近、私は、書店で一冊の本を見つけました。フランスの哲学者アランをご存じでしょうか。世界的に読まれている『幸福論』の著者です。そしてその哲学を解説した『100分de 名著』をたまたま書店の店頭に見つけたのです。何よりも私の眼を射たのは、表紙に大きな文字で記された次の一行でした。
「人間は、幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ(Il ne rit pas parce qu'il est heureux; je dirais plutôt qu'il est heureux parce qu'il rit」
まさに目から鱗でした。私は、ふと思いあたったのです。そういえば、最近、笑う機会が本当に少なくなっている、と。理由は、戦争や大地震だけではありません。政治の不正なども含め、お正月以来続いている暗いニュースに、とても悲観的な思いに沈んでいました。この世界に、永遠に続く幸せ、絶対的な幸せなど存在しない。すべての幸福は、相対的、運命次第。そんな現実を前にして、当然のことですが、笑うということに罪の意識を感じます。ですから、笑わない、という態度は、あるべき倫理的な選択の一つともいえるのです。しかし、笑い、とは、素直な内面の発露であり、一人ひとりに与えられた天与の才能でもあるのです。そして笑いには、確実に人を幸せにできる力が備わっている。では、そもそも人間が幸せであることの客観的な意味とは何なのでしょうか。ここで再び先ほどのアランの『幸福論』が登場します。よく耳を傾けて下さい。
「私たちが、自分を愛してくれる人たちのためになすことができる最善のこととは、自分が幸福になることである」
「自分の幸せをつかむために努力すること。無関心な傍観者の態度を決め込み、ただドアを開けて幸福を招き入れようとしても、幸福は入ってきません。入って来るのは、悲しみです」
今日の式辞の冒頭で、私は、これまで、七五年の人生を生きながら、これほどにも重苦しい時代を経験したことがない、と述べました。この重苦しさを振り払うために私たちができることを、今、発見できたような気がします。笑いを大切にしよう。そして幸せになる努力をしよう。他者の苦しみに鈍感で、自分の喜び、苦しみにしか関心をもてない人のことをエゴイストといいます。しかし、ある面では、エゴイストであることを一概に悪いことと決めつけてはいけない。なぜなら、幸福になるための努力を重ね、その幸福を手に入れ、幸福の何かを悟ったときに人は初めて、他人のエゴイズムに対して寛容になれるのですから。自分が幸せである、という実感を一人ひとりが積み上げること以外に、世界を平和に導く道はありません。つまり、エゴイズムの探求の末に得られた幸せこそが、人々に歓びを与え、平和の礎石となるということです。ドストエフスキーは、同じ『カラマーゾフの兄弟』で次のように書きました。「人を愛するものは、その人の歓びをも愛する(Кто любит людей, тот и радость их любит.)」と。他人、知人、友だちの歓びを愛すること。これこそが、皆さんに与えられた人生百年の課題であり、目標です。すべての人々に等しく与えられている笑いの才能、ユーモアの才能にめざめてほしい。人々から愛される「教養人」は、けっして気難しい顔をしていません。笑顔は、豊かな教養の証でもあります。今日、ここに新たなスタートを切る卒業生、大学院修了生の皆さん、お別れに、今から、口元を緩め、にっこり微笑んでください。そして日々、その笑顔を忘れることなく、着実に幸せをつかみとっていってください。
2024年3月22日             
    名古屋外国語大学長       亀山 郁夫