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2020年度卒業式が挙行されました



卒業生・大学院修了生へのメッセージ

この春、社会人として広く世界に飛び立たれる卒業生、大学院修了生の皆さん、また、さらなる学究の意欲に燃えて進学の道に入られる皆さん、それぞれの旅立ちにあたり、ひと言、餞の言葉を述べたいと思います。
私たちは今、新型コロナ禍という百年に一度の試練に曝されています。幸い、世界各国におけるワクチン開発の本格化によって感染者の数は減少傾向を見せていますが、予断を許しません。
こうした状況下、私たちの大学は、教育と研究の両面で厳しい試練に立たされました。しかしその最大の試練に立たされたのは、ほかでもありません、今年、卒業される皆さんです。皆さんのなかには、本来の願いを果たすことなく、社会に出られる方も少なくないことでしょう。そのことを思うと、私の胸は痛みます。しかも、今日のこの日の大切な餞の言葉を、こうしてビデオ映像のかたちでしか贈ることができないのは、返す返す残念なことです。
さて、今から十年前の2011年の3月、私たちは、東日本大震災という大きなカタストロフィを経験しました。その傷も癒え切らないうちに、コロナ禍というそれに劣らぬ規模のカタストロフィに直面することとなりました。私たちは、遠い将来に向け、これからも大なり小なりカタストロフィが起こり続けることを覚悟しなければなりません。地球レベルばかりではなく、個々の人間関係、いや、一人の人間の心のなかにおいても。しかし、同じ心理的、物理的なショックを受けながら、それに軽々と耐えていける人と、深く傷を負い、なかなか立ちあがれない人がいるのは、なぜなのでしょうか。
皆さんは、「レジリエンス」という言葉をご存じでしょうか。2010年代から欧米の企業を中心に使用され、日本のビジネス社会でも、会社の研修などでしばしばクローズアップされる用語です。要約すると、「逆境や困難、強いストレスに適応する精神力と心理的プロセス」をいいます。語源は、ラテン語で「跳ね返り」を意味する《resilio》。英語に置き換えると、《rebound》ですね。端的には、「回復力」、「復元力」の訳語が相当します。
ウェブ上でアメリカ心理学会が提唱している「レジリエンスを築く十の方法」を読みました。そこには、親戚や知人と良い関係を保つこと、危機やストレスに対して、これを耐えがたい問題といったネガティブなかたちで捉えないこと、自分の希望を可視化することなどが挙げられていました。一読して、どうということのない内容です。私なら、もっとポジティブに、芸術やダンスや他のさまざまな自己表現によってネガティブな気分から自分を解放する、そんな一項目をつけ加えることでしょう。しかし、この提言を読みながら、特に強く印象付けられた項目が一つあります。それは、「変えられない状況は、これを受けいれる」、それが「レジリエンス」を鍛えるという提言です。
この一行を読んで、私ははたと思いあたりました。アメリカの哲学者ラインホルド・ニーバーの有名な「静謐の祈り(Serenity Prayer)」からの一節です。「神よ、変えられないものを心穏やかに受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください」
信仰や立場の違いを越えて、深く胸に届くすばらしい言葉です。たんに受け入れるだけではない、そこからよりポジティブに、「変えるべきものを」しっかり見極める努力が必要だ、とニーバーは述べているのです。そこでは諦め、諦念からの再出発の意思が示唆されています。
さて、私が今日、皆さんへの餞に、「レジリエンス」という話題を取り上げたのは、この「受け入れる」という姿勢が潜在的にもつ可能性について、一つお伝えしたいと思うことがあったからです。「受け入れる」という態度を、けっしてネガティブな意味でのみ受け止めてはいけません。この用語には、じつは、「回復力」「復元力」に劣らない、皆さんがこれから生きていく上で大切な指針が示されています。
改めて問うことにしましょう。みなさんは、自分の考え方に柔軟性があると感じておられるでしょうか。自分の気持ちをコントロールできる自信があるでしょうか。どんな状況でも「何とかなる!」という楽観を持てるでしょうか。これらはいずれも、「レジリエンス」の指標となる問いかけです。
じつは、若い時代の私は、これら三つの問いに関するかぎり、ほぼ落伍者に近い、後ろ向きの人間でした。しなやかさに欠け、自分の気持ちが抑えられず、物事を悪く考えがちでした。ただ、それとはべつに、一つだけ、自分を支えてくれたものがあります。それは感謝の気持ちの強さです。感謝の気持ちの大切さに気づくこと、それが、「レジリエンス」に通じる大切な力だと私は言いたいのです。では、感謝の気持ちは、どうやって生みだせるのでしょうか。
ひと言で、自分という人間の小ささの自覚が大切です。そしてその小ささの自覚は、何かしら「大きなもの」との出会いがきっかけとなって生まれます。なぜなら、「大きなもの」は、宿命のように私たちの前に立ちはだかり、相手に膝を屈することを強いるからです。信仰に身を委ねている人は、「神」とそれを名づけることでしょう。他方、「神」を信じることのできない人々にとって「大きなもの」は、それぞれです。たとえば私にとって、「大きなもの」とは、若い時代に出会った音楽の力でした。昨年、生誕250年を迎えたルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽に、どれほど勇気を与えられ、生きる喜びを与えられたことでしょう。このように、人は、それぞれの関心の領域のなかで、これは、という、「大きな力」に出会うことができるのです。そしてその、「大きな力」を受け入れることのなかから、現にある自分の小ささの自覚と、感謝の気持ちが生まれるのです。しかし、ここで一つ、忘れてはならないのは、その「大きなもの」が、真にみずからの感謝に値するものなのか、を検証できる批判的な目も欠かせないということ。ニーバーは、「祈り」のなかで、「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」について書きました。それにならって私は言いたいのです。「大きいことはよいことだ」ではなく、ほんものの大きさと、偽ものの大きさの違いを、しっかりと見定める賢さを身につけてほしい、と。それがひいては、偽りのない感謝の気持ちの誕生につながるのですから。
感謝の思いは、それを伝える言葉の大切さの自覚を生み出してくれるでしょう。表現それ自体は拙くてもよいのです。肝心なのは、感謝の言葉の端々にゆきわたるデリカシーです。その輝きは、きっとほかの何にもまして、皆さんの将来を切り開く「大きな力」となると私は確信しています。
卒業生の皆さん、大学での学びのなかで、真の意味での「大きな力」の一端に触れることができたでしょうか。コロナ禍という現実のもと、生命とか、死とか、運命といった言葉に常に接しながら生きたこの一年、みなさんはことによると、一人の人間として、私たちの思いのおよばぬ「成熟」を手にされたかもしれません。「受け入れること」は、それが何であれ、「成熟」には欠かせません。
真にポジティブな意味での「大きな力」に触れ、それを受け入れようと努力すること、感謝の思いをとおして、表現のデリカシーを学ぶこと、これは、皆さんの人生に課せられた永遠のテーマです。どうか、皆さん、これから長い人生、「レジリエンス」に優れた真の意味での「大きな人」になるべく努力を重ねてください。
名古屋外国語大学での皆さんの学びは、今日で終わります。四月には、まさに人生という檜舞台での本番デビューが控えています。まずは、デビューの成功と、皆さん一人ひとりのご健康、ご成功、幸多き未来を祈りつつ、学長のメッセージといたします。
2021年3月22日             
    名古屋外国語大学長       亀山 郁夫