グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



ホーム > 学長の活動 > 2022年度入学式が挙行されました

2022年度入学式が挙行されました



告辞

皆さん、ご入学おめでとう。
今日は、皆さんの人生の新たなスタートの日。そこで、これから、私たちの学びにとっての原点、いうなれば、外国語を学ぶ意味について、最近、私が出会った小さな「発見」についてお話することで、歓迎の辞としたいと思います。
最初に、私の大好きなフランスの歌曲をお聴きください。曲名は、「夢のあとに」(Après un rêve)。作曲者は、フランス近代音楽の確立に努めたガブリエル・フォーレ。歌っているのは、二〇世紀のフランスを代表するソプラノ歌手、レジーヌ・クレスパンです。では、どうぞ。

いかがでしたか?
さて、私が初めに述べた外国語を学ぶ意味についての小さな発見ですが、答えを先に述べれば、どんな外国語でもいい、役に立つか、立たないか、など考えず、ひたすら無欲で、無心に学びなさい、ということです。
この小さな発見をもたらしてくれたのが、つい先ごろ、知人から送られてきた『リベラルアーツと外国語』という本の中のある一文でした。
ところで、「リベラルアーツって何?」と皆さんは怪訝に思われたかもしれませんね。じつは、私たちの大学には、「リベラルアーツ」を掲げた学科が二つあります。それは、「国際教養学科」と「世界教養学科」です。国際と世界の違いについて、また、学科の性質の違いについてここで述べることはしません。ただ、ひと言「リベラルアーツ」について説明しておこうと思います。「リベラルアーツ」とは、ひと言で、リベラルな人間、すなわち自由人となるためのアーツ、すなわち技芸、言い換えると「学び」です。

私たちが生きる時代は、恐ろしいほどに情報が氾濫し、私たち自身、荒れ狂う海に翻弄され、方向感覚を見失っています。
そうした時代に求められるのが、一つの規範となる「共通知」です。そしてこの「共通知」に基づき、世界の多様性に着目しつつ、共感すべきところは共感し、批判すべきところはしっかり批判できる、そんなバランスのとれた知性を身につける必要があるのです。そうでないと、私たちは、とてつもない嘘やデマゴギーの犠牲者となり、正しい判断ができなくなる危険性があるのです。仮に「自由人」という言葉が理解しにくければ、「教養人」と呼ぶこともできるでしょう。
しかし、「リベラルアーツ」を一通り修めたからといって、即「教養人」になれるわけではありません。「教養人」となるには、やはりそう呼ばれるにふさわしい専門的な知識と人生経験が欠かせません。単に知識を吸収するだけではなく、その知識と人生経験とをしっかりと結びつけることができた時にはじめて、真の「教養人」が生まれるのです。そしてその基礎的な学びとなるのが、外国語なのです。
では、なぜ、外国語の学びが教養の基礎となるのか。
AI技術を駆使した高性能の自動翻訳アプリが誕生するなかで、一見、外国語を学ぶ意味は大きく揺らぎはじめているかのように思えます。私自身、そんな揺らぎのなかに身を置く日が多くなりました。ところが、最近、先ほど紹介した『リベラルアーツと外国語』という本の頁を繰るうち、ある懐かしい固有名詞に出会い、外国語を学ぶ精神の原点ともいうべきものを改めて思い起こしたのでした。その固有名詞とは、今から半世紀近く前、私がまだ大学生だった時代に知った一人の若いフランス人女性哲学者の名前です。第二次世界大戦のさなか、彼女は、一冊の本さえ書き上げることなく、三十四歳の若さで非業の死を遂げました。彼女の埋葬に立ち会ったのは、わずか七人。ほとんど餓死に近い状態での死だったとのことです。そしてその死から四年後、彼女の遺した書き物が一冊の本としてまとめられ、異例のベストセラーを記録することになりました。
私は、『リベラルアーツと外国語』と題する本を通して、第二次大戦のさなか、死を覚悟したこの若い哲学者が、サンスクリット語の勉強を始めたという事実を知りました。サンスクリット語とは、インドや南アジアで用いられた古代語で、少なくとも現代、いや、彼女が生きた時代において、有用的、実用的な価値からはるかにかけ離れた言語です。彼女は、大学時代に一度、この言語に挑戦して挫折した記憶があり、死を目前にしてその克服をめざしたというのです。この哲学者を研究する鈴木順子さんが、この本のなかで次のように書いています。
「滅亡に向かいつつ自分と異なるものに尊厳を見出し、これから自分が滅んでまさに一体化してゆく、この世界、この宇宙への愛を確認する、その具体的な方法が外国語であった」
自分はまもなく死にゆく身だ。そんな自分を見つめながら、自分とは異なる世界にたいして尊敬の念を抱くこと、そしてこの世界、その宇宙への愛を確認すること、そのもっとも密やかな営み、それが外国語を学ぶことであったということです。
この若い哲学者の行為には、外国語を学ぶことによって「永遠」と繋がりたいという願いがこめられています。純粋に、他者と、世界と触れ合うための学びとして、そしてその世界への愛を確認する行為として外国語があったのです。これは私の勝手な連想ですが、そうした彼女の営みは、どこか、孤独な登山家のそれにも似ているように思えます。イギリスの登山家ジョージ・マロリーをご存じでしょうか。エベレスト挑戦の理由をニューヨーク・タイムズの記者から問われた彼は、次のように答えました。 “Because it's there.” 何かしら大きな目標に向かって無心に突き進むとき、理由はおのずから消えて、自分が生きている世界は、永遠の宇宙と化していくかのようです。
さて、私は若い頃、自分の専門とは別にフランス語に憧れ、独学でフランス語を勉強しました。有用とか無用とか、そんなことは考えもしませんでした。マロリー流にいうと、ただそこにフランス語の美しい響きがあったから、勉強しはじめたのです。
そして最近、先ほどのフォーレの歌曲を聴きながら、あることを確信したのです。外国語を美しいと感じる心の本質とは何なのか。
それこそは、鈴木さんの言う「その世界、その宇宙への愛」の証なのではないか、と。 
世界はいま、暴力に満ち溢れています。世界の平和を願う気持ちはだれも同じです。こんな時代に、私たちにできることとはいったい何でしょうか。世界の平和に何によって貢献できるでしょうか。私が今お伝えできる答えは一つ。みずからの責務として外国語の習得に励むこと。無用、有用といったことは忘れ、「私」をゼロにして学ぶのです。どれほど高性能の自動翻訳アプリが現れようと、皆さんの心のうちにしっかり抱かれた外国語ほどの価値を生みだすことはできません。世界の平和は、皆さん一人ひとりの小さな学びの総和の上に成り立っています。外国語の学びを忘れ、他者を愛することを忘れたときに戦いが生まれます。
どうかそのことを肝に銘じ、明日からの勉学生活をスタートさせてください。
最後に申し添えておきますと、先ほど紹介した若いフランス哲学者の名前は、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)。 
どうか、この人の名前を、皆さんの記憶のどこかに刻んでください。
2022年4月1日             
    名古屋外国語大学長       亀山 郁夫