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第10講 いろいろな外国語を学んで —フランス語おもしろ話—


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 第10講は、フランス語を、そのほかの外国語と比較しながら考えてみようとする課です。特に、関連の深いロマンス語(ラテン語がくずれて、俗ラテン語になり、現代のイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などとなった)との関係でとらえてみる試みです。このことによって、学生諸君が今までよりも、外国語への視野をさらに広げていこうという気持ちになってくれれば幸いです。
 まず、はじめに、外国語の学習に関係する2冊の書物を紹介します。1冊目は、シュリーマン(1822−1890)の『古代への情熱』です注(1)
 2冊目は、ネウストプニーの『外国人とのコミュニケーション』です注(2)。シュリーマンは、ビジネスマンから出発して、財をなしたのちにトロイ遺跡を発掘したことで、有名です。北ドイツ、北海に近い小さな村の牧師の息子でした。父からは、よくホーマーの話を聞いて育ったといいます。それが、父の思わぬ失職により、自分で生きて行かざるを得なくなります。「自分の地位をよくするために、熱心に近代語の学習を始めた」と自伝に書いています。また、自分で言語の学習を容易にする方法を発見します。それは、「暗記」です。
 英語の学習には『アイバンホー』を、フランス語のためには『テレマコスの冒険』を暗記します。これが、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語の修得を容易くしたと、述べています。貿易の仕事で、ロシア語が必要になると、『テレマコスの冒険』のロシア語訳をもとめて、これを暗記する。それが、スエーデン語、ポーランド語を容易くものにするのに役立つ。旅行のために、アラビア語もやっています。もちろん、長年の夢である、ギリシャの歴史を深く知っていくためには、現代と、古代ギリシャ語を猛烈に、ものにしていったことは言うまでもありません。この人の、学問的評価と残した教訓は何でしょうか。学生諸君の判断にまかせます。

 2冊目の書物の著者は、オーストラリアで、長年日本語を教えてきたチェコ人の書いたコミュニケーシヨン論です。著者は「異質な文化の中で経験するコミュニケ−シヨン上のつまづきは、ことばによるものばかりでない」ことを繰り返し述べます。言語教育者にしては、意外な発言です。さらに「国際問題は、実質行動に大きく左右され、音声言語や非言語コミュニケーションなどの行動の役割を不当に強調すること」を、諌めます。実質行動とは、日常生活や経済活動などで、国際問題の最大のものは「戦争」です。異文化を研究すれば、すべてうまくいって世の中は平和になるというのは、たしかに楽天的すぎます。しかし、大切なのは、この学者は、それにもかかわらず、「語学教育」の改善に情熱を燃やしていることです。コミュニケーション能力の向上ばかりでなく、さらに国際行動へと進むこと、そのためには、「二重文化能力」(biculturalism)、「多重文化能力」(multiculturalism)のスローガンはやはり大切だといいます。
 さてこれから、私の講義が(?)がはじまります。羊頭狗肉、竜頭蛇尾になってしまうかもしれませんが、長年の体験をふまえて、フランス語とその周辺の言葉について体得したもの、仮説的に考えていることを述べていきましょう。述べ方としては、だいたい、この講座の順序にそって、箇条書きの形式で進めます。

(1)リエゾンについて

 Pataquèsという言葉があります。リエゾンの間違いをいいますが、この語の由来について、少し考えてみます。Il est à Paris.この場合、多くのひとが、[ta]とリエゾンして発音するでしょう。澄んだ、いい音だからだと思います。動詞の最後の子音と次の語が母音のときには、リエゾンすると、理屈では、言います。。Je ne sais pas à qui est-ce.(これだれのものか、わからない)のとき、聞き慣れた音が、かえって災いとなって、あるひとが、je ne sais pas-t-à qu'est-ce.とつづけて言ったのを、皮肉ったのがこの言葉の起こりです。
 Pas encoreを[za]としない、フランス人とあったことがあります。自分は、汚い音が嫌いだから、と言っていました。では、つぎの文はどうしますか。Tu as entendu ? Je vais au zoo. ぞぞっとするから、やめておこうとするのがおそらく、正解でしょう注(3)

(2)文法上の性(ジャンル)について

 フランス語の性は、男性(m)と女性(f)があるが、中性はない。意味、語源、語尾から、それは決められる。参考書にこう書いてある通りです。しかし、これが、いつまでたっても、つまずきのもとです(pierre d'achoppement)。
 ゲーム感覚で、次のeで終わる単語に、le(un)かla (une)をつけてみてください。ラテン語の女性語尾aを表す無音のeは、女性を表す記号となったという知識はあまり役にたたず、弊害にさえなるのがわかります。(cf. le parti, la partieは確かに、理論通り)
     bombe, téléphone, demande, page,service, groupe, rivage, règle, silence,
     gramme,musée, visite, thème, date, chasse, mètre, tranche, manche注(4),
ラテン語の性を踏襲して、男性は男性、女性は女性、しかし中性の多くは男性、少しは女性になっていったというのが常識です。しかし、これもいざという時、どれだけの役にたちますか。ラテン語のmare (海f )は、たしかにla mer(f)となりました。しかし、イタリア語ではil mare, ポルトガル語で、o mar, スペイン語では、el marとすべて男性になっています注(5)。フランス語は、にせの友達faux amisに囲まれて孤独ですね注(6)
 ここで、日本語の語彙でフランス語にはいった単語が、mかfか、見てみます。karaté, kimono, kamikaze, kaki , haïku, hara-kiriすべて(m)です。しかし「天ぷら」はla tempuraとロベール辞典は登録しています。フランスの友人によると、ラテン語のaが女性の記号となっている伝統が残っているといいます。では、mangaはどうでしょうか、布団(fouton)が登録されるとどちらか、考えて見てください。

(3)動詞のêtreについて

 この動詞はavoirともども、フランス語を代表する不規則動詞です。その活用は、基をただすと、ラテン語のesseの活用が、くずれてできたものです。すなわち、sum, es, est, sumus, estis, suntという活用を基礎にしています。しかし、 教える側からすると、avoirより、不規則的なので困ります。即ち、半過去と単純過去で、j'étaisやje fusとなります。(j'avaisとj'eusは原則どおり)
 これよりも、より大きな問題は、ラテン語のesseのほかにあったはずの、stareの流れが、どこへいったのか、です。現に、スペイン語とポルトガル語には、ser/ estarの区別があり、前者は恒常的な「ある、です」を、後者は一時的な「ある、です」を示します。スペイン語で2つ例を示しておきます。
     Somos japoneses.(私達は日本人です。)
     Hoy Mariá está muy bonita. (今日はマリアはとてもきれい。)
 イタリア語には、stareが残っていますが、どうも、恒常的:一時的の対立ではなさそうで、意味もそれています。ここでも、フランス語は、にせの友達に囲まれ、孤独です。どうして一方だけになったのか.複雑な歴史をたどるのですが、英語とドイツ語に接しすぎた為、後者が前者に吸収されたという説もあります注(7)
 最後に、ハムレットの台詞で、この孤独な気持ちを言ってみましょう。Essere o non essere, questo è il problema.(イタ)Ser o no ser, eso es el problema.(スペ)音のせいで、なにか、生死のかかった重みがたりませんね。フランス語で、言うとどうなるでしょうか。これは皆さんに残しておきます。念のため、本物を書いておきます。
 To be or not to be, that is the question.

(4)接続法について

 ロマンス語諸語の文法書を見ると、どれも、直説法と接続法とが、対比、対照されて書かれています。ある意味で、ほっとしますね。みんな同じだ、わかったという気持ちになります。「ある事柄を、現実世界に属するものとして表現する」前者と、「想像や願望などに属するものとして表現する」後者と、いう説明も大体において、似ています。畢竟、客観的記述と主観的記述の差とも、要約できます。さらに、時制(テンス)も4つある点でも、共通です。
さて、名詞節(なになにと思う、等)に限って、常日頃、考えている事を、以下に書いて、この接続法の面白さに迫ってみましょう注(8)
 espérerとsouhaiterは、「希望する」で、ほぼ意味、いや語義は同じです。しかし、前者は、que以下で、直説法、後者は、接続法をとると辞書は指示しています。(肯定形のみ今は問題にします)。
     J'esp­ère que tout ira bien.(すべてうまくいく事を、私は願っている。)
     Nous souhaitons que vous réussissiez à votre concours.(あなたが、選抜試験に合格される事を、私達は願っている。)
 Il semble queは、接続法をあとに要求しますが、Il me semble queは直説法でいいとも、なっています。自分には思える、と言えば、より主観的になるのになぜでしょう疑問です。例を上げておきます。
     Il semble que la chose soit difficile.(物事は、難しいようだ。)
     Il me semble qu'il a tort.(彼が間違っているように、私には思える。)
 おそらく、主観的とはいえ、自分にとって「確実さ」が増すと、接続法から直説法に移動するのかな、と考えておきましょう。この移動については、微妙で、また文法上の面白い点でもあります。デリカシーの感覚をやしなっていきましょう。
ラテン語の長女と、イタリア語を呼んだのは、ヴォルテールです。彼は、この言語のほうが、微妙な表現に適しているとも言っています注(9)。この考えは、どうでしょうか.接続法で比較してみましょう。まず、croireとpenserは、イタリア語でcredereとpensareですが、これらの動詞のあとで、接続法にするのが普通ですから、徹底しています.Penso que tu abbia ragione.(私は、君が正しいと信じる)。Semblerはsembrareになりますが、「私にとって」があるなしにかかかわらず、ともに接続法です。
     (Mi)sembra che tu abbia sbaghiato((私には)君が間違ったように思える。)
ただし、ここでも、確実性が増すと、直接法に戻るようです。
     Credo che partirò questa sera. (今夜、出発しようと思う。)
フランス語の接続法の法としての価値については、ほとど無数といっていいほどの文献があり、無数の意見が学者によって述べられてきました。この講座は、学術論文ではありませんので、この辺りで終わりたいのですが、佐藤房吉著『現代フランス語接続法』という本がある事だけは記しておきます注(10)
この方は、接続法を、なんとかして、「疑惑」や「不確実」の法という固定観念から解放しようとしています。これで、また、みなさんの頭は、大混乱ですね。勉強とは、こんなものです。
 そう、忘れかけていましたが、接続法半過去の消滅の問題がありました。3人称単数 の箇所以外は、余りに文学的すぎて、会話ではもちろんの事、文章でも、接続法現在で代用していく傾向があります。19世紀のサンドがすでにaffleuxといい、サルトルは初期の作品などで接続法現在で代用しています。カミュも、接続法半過去のことを、『転落』という小説のなかで、皮肉まじりで奇妙だと語っています。
 イタリア語ではどうでしょう。さらにスペイン語では?Googleでこんな文章を見つけました、そのまま、引用しておきます。どうやら、接続法半過去は、健在で消え去ろうとはしていないようです。
 インターネットの時代は、皆さん方の時代のものです。参考にしないと、情報で負けてしまいますね。それでも、これで得た資料の検証はやはり、各自の仕事として残ることは変わりありません。
     En italien, c'est surtout le subjonctif imparfait qui se maintient. A l'oral,le prétérit
     est souvent remplacé par un passé composé ( comme en français) En espagnol par
     contre,la distinction entre les deux est encore nette.

(5)他国の“悪口”“陰口”

 この項目は、文化史上、歴史上で作られた、フランス語表現を引用して、コミュニケーションの問題を、少し考える材料にします。もちろん、フランス語の学習にとって、有益であると思われるから、扱うのであって、「差別」を増長させる意図は全くありません。
 Chinoisという形容詞は、ややこしく、込み入って、面倒という語義が学習辞典にも載っています。Chinoiseriesは無益なわずらわしさ、casse-tête chinoisは、パズルの一種ですが、超難問の意味でも使います。漢字を前にして感じたであろう、表現ではないでしょうか。
 Tête de Turcは、トルコ人の頭(顔)を人形にして、それを殴る、パンチ力テストです。そこから、嘲笑の的という意味となります。モリエールの『町人貴族』第5幕にもトルコ儀式がでてきます。オスマントルコの進出に、恐怖感をもった、当時のフランス人の気持ちの表れかと、うがって考えています。トルコのひとびとには、EUに参加できないことに加えて、おもしろくはないでしょう。
 しかし、はじめに述べたごとく、フランスの周辺国をめぐる表現にかぎって、以下は述べてみましょう。

 結論を先に言えば、それらの表現をみるかぎり、相手を褒める事は、皆無にひとしいこと、そして、お互いさまのことであること、相手の国にも、そういう表現があるということです。
 そのいい例としては、イギリス人に対しての表現をとりあげます。Filer à l'anglaise (イギリス人流に去る。挨拶もせず、こっそりと帰る。)これには、French leaveがちゃんと残っています。ただし、これはやや古く、普通のひとが理解し、使っているかは、別の問題です。
スペインは3つ、話題を提供してくれます。
     1. parler français comme une vache espagnole,
     2. bâtir des châteaux en Espagne,
     3. auberge espagnole.
 第一の表現は、もちろん、下手なフランス語を話すことです。スペイン語で、牛をvaca(バーカ)というのが、これと関係あるのかといえば、残念ながら、はずれです。もとは、basque espagnoleでした。バスク人にたいして、遠慮して変更したのか(ザビエルもここの出身)、バスク人の抵抗を恐れたのか、調べてみてはいかがでしょうか。
 第二の表現は、実現不可能な計画や空中楼閣のことです。フランスは732年に攻めて来たイスラム勢力に、ツール・ポアチエの戦いで勝ちました。それ以降、仇敵をピレネーの彼方に、追いやり続けました。しかし、スペインは500年にわたり、イスラム圏でした。諸説ありますが、簡単に言えば、他人の土地に家を建てることから由来した表現と私は思います。ナポレオンがいったとされる、「ピレネーのむこうは、アフリカだ」、にも、スペインに対する揶揄の気持ちがありありです。この言い方は同じたぐいの表現の元になって、今でもフランス人の好んで使う表現です。「ヴァランスより北は、自分にとってはシベリアだ」、と言ったフランス人教授の事を思い出します注(11)
 第三は、映画にもなった表現です。雑多な人種がいりまじって生活している様子をいいます。いい意味で、今日のEUの姿を映しております。この表現は、いま映画の力で、その意味内容を良い方に変えつつある!と言えましょうか。
 イタリアについて、次に探してみます。別に、捜してまで、載せる事は無いだろう、とも思いますが。ところが、Rital(イタ公という日本語の言い方にぴったりです。1890年頃できた、俗語です)は有名ですが、意外に、そのほかに、この項目にぴったりなのはありません。むしろ、あがめるような気持ちで、à l'italienneは使われています。料理しかり、喜劇、建築、絵画、すべて、イタリアの過去と現在(それも、せいぜい18世紀まで)によって文明化を果たしてきたフランスとしては、変な表現をしたら、罰が当たりますね。
 急にアメリカに飛んで( vol)みます.vol à l'américaine (アメリア風盗み)とは、信用詐欺のいみで、辞書に載っています。アメリカ人は、金持ちというイメージを使ってのだましです。Oncle d'Amérique はモーパッサンの名作『ジュール伯父さん』からできた表現です。外国で、ひともうけをして遺産を遺してくれそうな親戚はいないかな、と夢想するときに、使ってください。Ce n'est pas le Pérou.それはペルーでない?これも、ピサロがインカを征服して、金銀をかっさらった故事にちなんだものでしょう、たいした額でないことや、たいした儲けにならないときに使います。
 スイスも、いいことを言われていません。Manger( boire)en suisse.これは、友人を招待せず、自分一人で飲み、食いする、意味です。
 ドイツは、生臭いナチス時代のことは避けましょう。Travailler pour le roi de Prusse. (プロシャの王様の為に働くー無駄骨をおる。)ヴォルテールもベルリンに行き、喧嘩して帰ってきました。多くのプロテスタントのフランス人が、迫害から国をのがれて、むかしのドイツのためにつくしていますので、その辺りから生まれた表現かと想像します。

 このように、並べたのは、先にことわっておきましたように、なにも差別用語をいまさら掘り返す為ではありません。お互いに言いあっても、大きな喧嘩にならず、おおらかに、受け流す度量を身につけた欧米を見習いたい為です。残念ながら、日本近辺では、未だに言葉狩りが、横行しています。先の戦争は、アジアに悪い影響をいまだに残しています。精神の自由のため、おたがいの真の友好のためにも、練り上げられた関係を作るよう若い皆さんに願いします。言葉だけでは、だめ!
 しかりです。されど言葉です。よく相手の文化背景を理解した上で、ユーモアあふれる言葉で自己を語るように努力して下さい。

-おわりに-

 これで、全11の「講義」は終わりです。自習用の、いわゆるチェック方式の教材は、また別に考えねばなりません。しかし、当面は、フランス人、正確には、フランス語を母語とする教官が本校には沢山いますので、どんどん、質問をして、体当たりしていき、そのコミュニケーションの過程で、自己修正をしていってください。そのことを、切に願っています。


(1)シュリーマン著、村田訳『古代への情熱』(岩波書店)
(2)ネプストニー著『外国人とのコミュニケーション』(岩波新書)
(3)朝倉季雄著『新フランス語文法事典』(白水社)p. 290参照。
(4)正解が5つ以下のひとは、第1講 に戻ってください。なお、最後の単語はla manche (袖)と、le manche (取っ手)とありますので、どちらも、たまたま正解。
(5)ボスナー著『ロマンス語入門』(大修館)
(6)英語のseaは歴史的に早い時期(14世紀)に性をなくしています。ドイツ語は、die See(f)とdas Meer (n)とあります。それぞれゲルマン系とラテン系とですが、やはり、性は一緒ではありませんね.形がより大きな決定権をもつようです。太陽はdie Sonne,月が、der Mondとフランス語と性がむしろ逆です。この場合、原因は、神話の世界にまで、さかのぼると言われています。
(7)島岡 茂著『フランス語の背景』(大学書林)p.88—p.97参照。
(8)この項目は、第2講の内容を良く理解した上で、êtreとavoir,さらにpouvoir, faire, allerのsubjonctif présentがすぐ口に出てくるようになってから、読んでください。
(9)Voltaire: Correspondance.Au marquis Albergati Capacelli,le 6 novembre 1759
(10)佐藤房吉著『現代フランス語接続法』(第三書房,1970)
(11)空中楼閣は各国語でこうなります。
   Build castles in the air (the sky, Spain). (英語)
   Schlösser in die Luft bauen.(独)Hacer castillos en el aire. (西)
   Fare castelli in aria. (伊)
   Construir castelos no ar. (ポ)
英語がわずかに、Spainということばを入れて、フランス語におつきあいしているのがほほえましい。今は、英国は外交でアメリカによく従っていますが(?)、言葉の点では、頑固なようですね。地下鉄も、何階かも言い方が両国でちがいますから。

以上。