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亀山学長対談



名古屋外大の未来に向けて ~亀山学長対談~

「夢を実現する7つの力」を軸に大学を改革することで、グ口ーバルに活躍する女性を社会に輩出し、高い就職率を誇っている昭和女子大学学長の坂東真理子先生をお招きし、多様化する社会ニーズに対して外国語大学力が如何に立ち向かうかを話し合っていただきました。

名古屋外国語大学学長
亀山郁夫先生

1974年東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了。1982年天理大学外国語学部助教授、1987年同志社大学法学部助教授、東京外国語大学外国語学部教授を経て、2007年東京外国語大学長に。ロシア文化やロシア文学を研究し、主な著書に「破滅のマヤコフスキー」「磔のロシア―スターリンと芸術家たち」。翻訳書にドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」など多数。

昭和女子大学
坂東眞理子先生

富山県生まれ。1969年東京大学卒業、総理府入省。内閣広報室参事官、統計局消費統計課長、男女共同参画室長、埼玉県副知事、ブリスベン総領事などを経て、2001年 内閣府男女共同参画局長。2004年から昭和女子大学大学院教授・女性文化研究所長。2007年から昭和女子大学学長。現在に至る。「米国きゃりあうーまん事情」「副知事日記」「女性の品格」「夢を実現する7つの力」「働くということ」「働く女性が知っておくべきこと」など著書多数。

2013年春から名古屋外国語大学は、東京外国語大学の元学長である亀山郁夫先生を新しい学長として迎えることになりました。学長の交代は11年ぶり。亀山先生が以前勤めていた東京外国語大学は、2012年度に外国語学部を廃止、「世界諸地域の言語と文化に通じ、優れたコミュニケーション能力と人間的な想像力を備えるとともに、国際社会の舞台で言語間・文化間の媒介者として活躍できる人材の養成」を目指す「言語文化学部」と「世界諸地域の歴史や社会の仕組みに通じ、そこに内在する問題をグローバルな視野で解決できる能力を備えるとともに、国際ビジネスの舞台で幅広く活躍できる人材」を養成する「国際社会学部」に改組し、グローバル人材育成への取り組みに力を入れました。

本学でも、「多様化、高度化する国際社会を見据え、“国際共通語である英語”を基盤に、職業分野に直結する能力を持った人材育成」を目的にして、2013年4月から現代国際学部を2学科から3学科に改組。亀山新学長指揮のもと、新たなるステージへと向かっております。

今回は、「夢を実現する7つの力」を軸に大学を改革することで、グローバルに活躍する女性を社会に輩出し、高い就職率を誇っている昭和女子大学学長の坂東眞理子先生をお招きし、多様化する社会ニーズに対して外国語大学が如何に立ち向かうかを話し合っていただきました。

昭和女子大学が掲げる 学生のゴールを明確にした「7つの目標」

亀山先生
昭和女子大学では、グローバルビジネス学部を立ち上げられるなど、大胆な改革を行い、話題を呼んでいます。就職率もすばらしい高さを誇っていますね。坂東先生のもとで昭和女子大学は、ますます輝きを帯び始めているような印象を受けます。学生に単に教養を与えるだけでなく、しっかりと出口を作って行くところが、大学の評価自体につながっていくのだ、ということを今さらながら実感しました。
坂東先生が、非常に明確な7つの人材育成目標を掲げておられます。「グローバルに生きる力」、「外国語を使う力」、「ITを使いこなす力」、「コミュニケーションをとる力」、「問題を発見し目標を設定する力」、「一歩踏み出して行動する力」、そして最後が「自分を大切にする力」です。じつによく考え抜かれた目標だな、と思いました。最初にお聞きしたいのは、まず、この発想がどこから生まれたか、ということです。

坂東先生
かつての昭和女子大学では学問に集中し、教養を身に付けて魅力的な女性になることが大切だと言われており、良妻賢母教育が主流でした。社会に通用するとか、就職を見据えた教育は二の次だという考え方がかなり強かったんです。
しかし、女性の社会進出が普通になった今、女子大学は教養を身に付けさせるだけではなく、社会に出たときに通用する人間を送り出すことも使命ではないかと思いました。そこで、昭和女子大学では社会人として通用する力を身に付けて欲しいと考え、7つの目標を設定いたしました。学生が社会に出てからすぐ使えるように、分かりやすい言葉を意識してあります。例えば、よく目標として掲げられている「クリティカルシンキング」という言葉を、学生が読んでストンと納得できるように言い換えたのが「問題を発見し目標を設定する力」というようにです。

クリティカルシンキングに偏らず「共感力」を併せ持つことが大切

亀山先生
今、クリティカルシンキングというお話が出ましたが、私自身も、常々、クリティカルシンキングって何だろうかと考えるんですね。今の大学における知の在り方というのは、クリティカルシンキングではもうだめなのではないかとさえ思うことがあります。むしろ、相手の意見や気持ちをしっかりと受け止める「共感力」が求められているのではないかと。共感する力が欠けていると、文学や芸術といった教養の根幹を果たすもっともリアルな部分に触れることがないまま終わってしまうような気がします。
とはいっても、共感力だけでもいけないわけですね。圧倒的な数をほこる男性社会のなかで、女性がしっかりと自立して歩んでいこうとすると、共感力だけではだめです。逆に、相手に巻き込まれ、マイナスに働く可能性がある。それなりに手に職を付けたうえで、しっかりと相手を睨み返す力が欠かせません。

坂東先生
その通りですね。目標をしっかり持って、そのための力を養うことが絶対必要となります。一方で女性が自立自立といって、周りの人に共感する力がないと本人の人生が寂しいだけでなく、社会に通用する人材になり得ないのではないかと思います。
日本人はディベート力が弱いからもっと議論する力が必要であると言われますが、議論で勝つのではなくて、議論の過程でお互いに新しい発見をしたり、相手を納得させるとかというのが本来のディベートの目標でないかと思います。段階として議論はしますが、勝った負けたではないということを学生にきちんと伝えていきたいですね。

就職に有利な語学系だからこそ社会で通用する人材を育成する使命も

亀山先生
ここ1、2年、受験界では、就職に有利だからというので、理系の受験が増えていると聞きます。いわゆる理高文低の傾向です。若者たちが理系にどんどん流れて行く現象を、坂東先生はどんな風にご覧になられますか。

坂東先生
私が学生だった産業成長の時代、国立大学には工学部が増設、増員され、成績の良い人はみんな理系に行きました。私はその人たちが日本の経済の発展を支えたと思いますが、彼ら全員が理系の仕事に向いていて、適正に能力を発揮したわけではないと感じます。学部は理系で勉強したけど実は文系マインドを持っている人が、違和感を持って組織の中で面白い仕事をしていることもあるので、理系に行くのも悪くないかなとも思いますね。特に。文系から理系に転換するのは困難ですが、逆は可能です。

亀山先生
そうですね。1960年から70年代にかけて、医学系への関心は非常に高かったわけですが、彼らには、自分たちが日本を支えていくんだという気概があふれていました。しかし、現代の若い受験生にある理系志向は、逆に内向き志向というか安全志向の表れなんですね。その点が非常に残念ですね。医学系の志向は、やはり、根本において、生命とは何かというヒューマンな問題意識に支えられていなくてはならないはずです。

坂東先生
理系が社会に必要だからというか、就職に有利だからと選ばれているのが寂しいですね。私どもの大学は、先ほどお褒めいただいたように2年連続女子大学での就職率トップなんですけど、学生は1年生のときから、自分がどんな人生を生きたいか、何をもって世の中に認められようと思っているのかということを考えさせられるんです。家庭を持ったり、結婚するというのは女性の人生では大きな比重となりますが、それと社会生活をどうバランス取って過ごして行くかということを、とことん教えます。そして、就職してある一定の社会経験を身に付けた上で家庭を持とうという風に思えるように仕向けるのです。それが就職率トップという結果に反映されているのではないかと思います。

亀山先生
大学選びは、就職も視野に入れる時代にあるなか、外国語学部は人文系でありながら手に職が付くので、不況に強いと言われていますよね。だからこそ、単に語学の習得に留まらず、社会学系の学びの要素も必要になってきたのだと感じます。

坂東先生
手に職という感覚は、男性より女性の就職に欠かせないと思います。女性の就職は男性と違って、世の中に出るとき素手では戦えないんです。男性の場合は手に職がなくても職場が期待して鍛えてくれるので、大学時代に“ぼーっ”としている学生も、就職後立派な社会人になれるんですよね。女性はそれが期待できないから、学校にいるうちにきちんと勉強して「これができる! 」という能力を身に付け、それを手がかりに職場での居場所を確保しなくてはいけないんです。だから昭和女子大学では、女子学生が社会に出て活躍できる力を身に付けさせる教育をしています。

亀山先生
確かに、女子学生は在学中も非常によく勉強していくし、優秀な学生が多いですね。大学4年間を有効に使って卒業していくという印象があります。

坂東先生
私たちの世代で女性で社会的に活躍している方は、大学で語学をしっかり勉強し、社会経験をしてから、アメリカのビジネススクールとかロースクールに通って専門知識を身に付けて、社会に戻ってさらに活躍するというパターンが多いですね。きちんとしたスキルを身に付けた上で、どういう教育を自分が受けて、自分をどう育てて行くか、長期的な視点で考えた方が成功しています。男性は自分で考えなくても、職場や社会が考えてくれる。女性は機会が少ないんです。

亀山先生
そうですね。女子学生は男子学生以上に厳しい試練を歩まなくてはならない宿命を背負っています。それによって養われる強さというものが、今日本に求められている気がします。韓国での女性大統領の誕生には、我々も励まされますね。女性には、女性特有の繊細さに支えられた強さ、ねばり、精神のダイナミズムがあって、それこそが、今の社会に必要とされているんではないかと思うのですよ。

企業が求めるグローバル人材を育成するために
大学の言語教育はどうあるべきか

亀山先生
さて、言語の話になりますけど、コミュニケーション・ツールとしての英語の必要性が、この数年、非常に声高に叫ばれています。単に大学などの教育の場だけでなく、ごく日常的で、身近なところで、英語が話せないとだめだという自覚が高まっています。韓国における英語教育のラディカルさが、刺激になったと思います。私自身、グローバル化に追いついて行かなければならないというひたすらな想いで、東京外国語大学の学長として6年間過ごしてきました。ロシア語、ロシア文学の専門家である私としても、きわめて苦しい戦いです。でも、ともかく、最近の風潮を見て、ようやくグローバル化が日本人の意識の奥にまで浸みてきたのかな、という思いを強くしています。
私が、東京外国語大学で学長をしていたとき、グローバル化に対応する教育カリキュラムの改革を断行したいと考えました。グローバル化時代に向けて、学生の意識を変えるには、教員の意識から変えて行かなければいけないと感じました。しかし、教員の一人一人は、英語以外の地域言語や、地域の文化研究に対して非常に高い誇りを持っている。ですから、「グローバルスタンダード」である英語を中心としたカリキュラム編成をと、いきなり言っても受け入れ難い部分があるんですね。

坂東先生
私もそう感じました。教員と民間の経営者の意識の間にものすごいギャップがある。民間の企業経営の方たちは、グローバル化はどんな企業でもやらないと生きて行けないと骨身にしみていますよね。

亀山先生
ところで、昭和女子大学はアメリカに分校を持っていらっしゃいますが、かなり前から語学の教育が進んでいたということでしょうか。

坂東先生
25年前、先々代の理事長が「アメリカの社会や文化を理解し、太平洋の架け橋となる女性を育てたい」とスタートさせた分校です。当時は、「アメリカでの生活は経験させたいけど、危ない目にあわせないでください」という親御さんが多かった。語学と言っても、英会話ができる程度で、外国人に話しかけられて道をきかれて答えられるくらいで十分という時代。グローバルに活躍する人材を輩出することは目指していなかったんですよ。でも、この10年はそれでは物足りず、アメリカの大学に行かなくても劣らない中身のある教育を受けた人材が日本で求められるようになってきました。
25年前はアメリカで生活することに意味があったんですけど、今はそこでどんな力を身に付けられるか、社会で使える教養を身に付けられるかということが重要になっています。

亀山先生
その通りですね。韓国・中国の進んだ英語教育にもあるように、単に海外に行ったときに多少とも日常会話ができればよい、というのではなく、日本人の多くを底上げ的にグローバル言語の習得に向けてリードしていく必要があると思います。外国語を勉強する動機の一つに、「外国人と友達になりたいから」と答える学生が少なくありませんが、今では、英語さえできれば、スカイプその他のWebサイト上で簡単にコミュニケーションできる時代なんです。ただ、面白いことに、そういうサイトにアクセスしてくる外国人の英語は、結構、破天荒というか、型破りです。要すれば、通じればよいという、強さですね。ここは、何としても学びたいところです。

坂東先生
そうですね、ブロークンイングリッシュが国際語になっているのが現実ですよね。

亀山先生
私はそういう傾向も悪くないなと思うんですよ。そのくらいの大らかさ、図々しさで英語を話す。英語コンプレックスを感じることなく、英語を発する強さ、これが大切です。
私自身、英語による会話はほとんど60の手習いで、グローバル化時代にかなり乗り遅れた人間ですから、大したことは言えませんが、彼らの勇気だけは見習いたいと思います。あとは英語を使って何をしたいか、ということです。例えば、自分が日本という狭い社会に留まっていられないので、海外に向けて何かを発信したいとか。目の前にいる日本人には評価してもらえなくても、外国人なら自分の能力を評価してくれるかもしれない、とか、そんな希望をもって国境を越えて世界とつながっていこうというのは、それだけでも、とても大切な自己主張だと思います。

坂東先生
そうなんですよね。例えば、生け花ができる女性がいるとします。日本にいたら当たり前で誰も認めてくれないけれど、別の国の人から見ると賞賛を得られるんです。そういう風に、外の世界に出たら自分を評価してくれる人が一気に広がりますね。

今後求められる“本物の教養を学生にどう教えていくか

坂東先生
先ほどからお話に挙がっているように、単に語学を習得するだけでなく、何か語るべきものをもたないといけない。しかし語るためには、語学がきちんと身に付いていないといけない。どちらの習得が先なんだと、思うこともあります。もちろん両方いっぺんにというのが理想なんですけどね。大学の4年間で考えると、とりあえず始めの1・2年生はツールとして語学を身に付けることに集中するべきだと思います。それから、3・4年生で語るべき内容となる専門的なものを自分で考える。その2段階が好ましいと思っています。
本当は大学が語るべきものを見つける方で、高校までにツールを身に付けないといけないとは思いますが、日本の中学・高校での英語教育は物足りなさすぎますよね。
中国や韓国に比べて文法力や会話力が劣っているし、ボキャブラリーに乏しいのが致命的。だから大学ではそれらが足りない学生たちにしっかりと、1・2年のうちに語学を勉強させて、その上で専門的な知識を習得してもらう。日本の大学生って大変ですね。

亀山先生
思うに、語学を身に付けて語るべき何かっていうのは、答えとしては月並みなようですが、やはり、教養なんですね。教養というのは自分が生きていく上で、末永く喜びを経験するための知だと捉えています。単なる物知りとは異なり、その人にとってのアイデンティティや語りたいこととどこかで深くつながっていてこそ、本物の教養だと言えますね。だから、物事を何でも知っている必要はなく、むしろ、ある特定の領域と、ある種の理解の深さが求められる。しかもその深さの感覚は、共感力からしか生まれない。他者や他者が作ったものと一体化できないと、ほんとうの意味での経験知は生まれない。例えば、読書にしても、これは、他者すなわち著者との出会いそのものです。あるいは、小説であれば、登場人物たちとの出会いの体験そのものであり、彼らの言葉や行動に共感し、それを自分のものとして受け入れるところから始まりますよ。そのような「受け入れる力」は、どのようにして養えばいいのか、坂東先生はどうお考えでしょうか。

坂東先生
私も、教養には自己完結する教養と社会や他者とつながる教養があるのではないかと考えています。かつて日本の教養は自己完結的で、自分の心の安らかさ、自分が知的な生活をするということを目指してきて、そういう教養はある種うらやましい悠々自適な境地と言えるかもしれないですけど、社会につながる働きかけがあまりない。これから求められる教養はアクティブで、共感するもので、自分だけでなく他の人も一緒に幸せにできるようなものでないといけないと感じています。

亀山先生
坂東先生がおっしゃったように、教養という知の体系をどうやって若い人たちに継承していくかというときに、ある種の知の体系として捉えられがちです。例えば文学などはそうですね。人文学的な教養は古い時代からの知的な遺産で、それを現代でも継承しなさいというのは、上から目線だと思うんです。アクティブな教養は、必ずしも過去からの知的な体験を指すわけではないんです。教科書に載っている知的体験とは違うかもしれないけど、若い人が持っている知的体験、つまり彼らが夢中になれるものも教養になり得るのではないかと思います。

坂東先生
若い人が夢中になれるライトノベルとかポップミュージックなどを教えるということですよね。

亀山先生
そうです。若い人たちの知の文化を、上の世代の人間、たとえば先生方がしっかり受け止めてあげないと、どんどん若い人と先生が乖離して行ってしまいます。若い人に、シェイクスピアの面白さを分かれ、といっても、むずかしい。私はたまたま中学生時代に『ハムレット』を読んで、ものすごく気に入って、それから何度も何度も暗記するくらいになり、役者になってハムレットを演じたいとまで思ったほどです。高校時代には、シェークスピアの原書を引っ張り出してきて、三幕一場の例の有名なセリフ「生きるか、死ぬか、それが問題だ」のセリフを丸ごと暗記したくらいです。でも、当時の私には、ハムレットに自己同一化したいという、きわめて特殊な事情があった。その時、その時代だからこそ、『ハムレット』の世界に深く同化できた。でも、今は、それは、ほとんど不可能です。ですから、これほどの名作でも、内的な同一化の体験を伴わないので、外形だけの、たんなる浅い知識にとどまってしまう。つまり、古典が単なる常識のアイテムでしかなくなってしまう。それを、私たちは、一方的に強要できるのか、ということです。ですから、先生方は、自分の持っている教養という知の体系に甘んじることなく、それが、本当の意味での教養知に落とし込めるように、世代を超えて徹底して語りあう必要がある。そのうえで、お互いが努力しあって新たな教養知の体系を作っていかなくてはならないと思うのですね。

坂東先生
私が教養の授業のときにいつも若い人に教えていることがあります。今流行しているものは今選ばれるだけの魅力があるのだけれど、世代ごとに流行りの文学とか文化があって、時代が変化しても選ばれたものだけが生き残っていく。だから、時代によって選ばれた古典っていうのは本当に得なのよって教えています。せっかく今学んだことが通用しないというもったいないことにならないように、今読んだものが何十年も先に残るような深い教養を身に付けるべきですよ、と。
また、日本の古典だけでなく、海外の文学もクラシック音楽もそう。違う文化の人と会話をするときに、共通の基盤になるんです。もちろん、知らないことを話すから面白いという好奇心的な面もありますが、共通の話題があることで繋がりやすくなることもあります。

亀山先生
教養はグローバルな活躍の手助けにもなるということですね。先ほどお話に挙がったライトノベルも、本を読む習慣を身に付けさせるには、必要かもしれません。本を読む習慣が身に付いていない若い人にいきなり古典を与えても受け入れられないのはわかっていますからね。でも、そう、私には、じつは、大きな夢があるんですよ。名古屋外大の学生全員に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読ませる夢です。私の翻訳で。なぜって、もし、『カラマーゾフの兄弟』が読み通せれば、一生、読書コンプレックスを抱かなくてすむようになりますからね。あとは、どんな小説でも、長さにおびえることなく本が読めるようになります。

坂東先生
そう、そしてライトノベルにとどまらずに次の段階のものを読ませるのが教育。もっと面白いものがあるよと、背中を押してあげるのが教育ですね。若い人を見ていると、「あれもこれも、もっと面白いことがあるのに、何で気づかないんだろう」って、もどかしくなることがあります。本当は「あの人があれ面白いって言ってたよ」とか、学生同士や学生と教員の間で気軽に共有できるといいですよね。

教員が知識を与えることを惜しまず学生と場を共有するために必要な考え方

亀山先生
ハーバード大学の例のサンデル教授の講義のように、興味や学びを共有できるのが理想ですね。ハーバード大学の講義がなぜ素晴らしいかというと、教養って大事でしょということを非常に直接的に教えてくれるんですよね。みんなで音楽を聴くとか、みんなで講義を聞くとか、教員と学生で場を共有しているという感覚がありますね。そういうのが大学に広がると、教養も学びやすくなると思います。

坂東先生
これぞアクティブラーニングですね。一方的に講義を聞くのではなく、「先生はそうおっしゃいますけど、私はこう思います。」と、先生とのやりとりができるような場所を作らなければいけないと思っています。

亀山先生
大学の先生の多くは、大学は、学問を提供する立場だからと言って、それを口実に自分の殻に閉じこもる傾向があるんですよね。他者をまじえて自分の学問を語るのが不得意な先生が少なくありません。私の考えでは、自分の専門知をいかにわかりやすく言葉で伝えるかが大切で、それには、やはり教育者としての情熱が不可欠です。教育者の情熱というのは、声そのものだと思うのです。大きな声でも、小さな声でもいい。ともかく、語りかけるという情熱、そういう情熱を持っている先生が一人でも二人でも多くいる大学が、本当の意味で良い大学と言えるのではないでしょうか。

坂東先生
ハーバード大学では学期の間は教育者としての仕事に比重を置いてください、春休み、夏休み、冬休みのうちは研究者の仕事をしてくださいと言われているそうです。大学の教員は教育者と研究者、どちらの役割も果たしてほしいですね。

亀山先生
人文系は特にそうだと思います。自分たちの研究を学生に還元していく。自分がしている研究を、生きた言葉で伝えて行くことは、次世代の教養が生まれるための不可欠な行為。その努力を惜しんだら、教員として、あなたは何をしているのですか、と問いたくなります。

坂東先生
知識や教養というのは与えればこっちが空っぽになるという訳ではなく、与えれば与えるほど自分も気がつくことがあり、新しい見方ができて自分が豊かになるんですよね。

亀山先生
私もそう思います。私自身、学生の卒論で新しい視点を見付けて、それを自分のテーマに発展させていったこともあります。

坂東先生
そういう刺激が私たちを育てるんです。自分が教えると真似されると出し惜しみする人もいるけれど、それで教員も成長するのです。

常に変わり続けることが学生や社会に支持される大学の条件

亀山先生
時代とともに、学生と先生の付き合い方の理想も変化してきましたね。語学や教養のあるべき姿も変化してきました。
語学の在り方の変化としては、私たちの時代の外国語学部は、「世界に飛び立つ人材は、外国語学部からしか生まれないくらい」の夢が抱ける場所でした。しかし、今はグローバル化で世界が自分の至近距離にまで近づいてきて、外国語学部という名称でイメージできるものがどんどん痩せてきていると思います。私自身、それを痛感し、東京外国語大学の外国語学部を言語文化学部と国際社会学部の二学部に改組しました。むろん、老舗としての看板を守る、「変えない」という選択肢もありえましたが、私は、114年の伝統をいったんは捨てて、「変える」という選択肢を選びました。といっても、この構想を実現するのに、15年もかかりました。グローバル化の時代、大学は、動かなくなったら「死」だと思うんです。東大の法学部でさえ定員が満たなくなる時代ですから。動くこと、変えることは、もう、グローバル化時代の宿命なんだと思っています。

坂東先生
そうですよね、大学の価値も変化してますね。大学ランキングも20年前と比べると大分変わりました。変えようと思えば、どこの大学でも変えられると感じています。

亀山先生
グローバル化の時代、情報化の時代というのは、一寸先は闇の時代です。恐ろしい不確実性に満ちている。ただ、転落も早いかわりに、逆に上昇も、あっという間に可能になる。グローバル化時代というのは、言ってみれば、巨大な目をもつ猫のような存在だと思っているんです。動いていることに、目が行く。動いていないところに、世間の目は向かない。ですから、常に「変わる」。そして「変える」という心の用意をしておいたほうがいい。それは、教育カリキュラムだけの問題ではありません。名古屋外国語大学は、その点で、先見性に満ちた大学だと思っています。これからも、グローバル社会で活躍できる学生を一人でも多く輩出できるよう努めていきたいと思います。